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東京地方裁判所 昭和39年(ワ)11315号 判決

原告 金澄子

被告 大東京信用組合

主文

原告の請求を棄却する。

訴訟費用は原告の負担とする。

事実

原告訴訟代理人は「被告は原告に対し金三九〇万円を支払え。訴訟費用は被告の負担とする」との判決を求め、

請求原因として

「原告は、原告を債権者、訴外波多野敏子こと呉錦順を債務者とする債権額金八三〇万円の公証人上田次郎作成昭和三九年第八六号準消費貸借契約公正証書の執行力ある正本に基き、訴外波多野敏子こと呉錦順に対する強制執行として、同人の被告に対する満期昭和四〇年三月一二日金額二〇〇万円及び満期昭和四〇年三月一六日金額一九〇万円合計金三九〇万円の定期預金債権について、昭和三九年五月七日東京地方裁判所に対し、債権差押及び転付命令を申請した(同裁判所昭和三九年(ル)第一〇四〇号)。同裁判所はこれを容れ、右債権差押及び転付命令は昭和三九年五月七日第三債務者たる被告に、同月一〇日債務者たる呉錦順にそれぞれ送達された。

よつて右債権は原告に帰属するに至つたので、原告は被告に対し右定期預金債権にもとづき金三九〇万円の支払いを求める。」

と述べた。

被告訴訟代理人は「原告の請求を棄却する。訴訟費用は原告の負担とする」との判決を求め、答弁として

「訴外波多野敏子が被告に対し原告主張の定期預金債権を有したこと、原告がその主張の債務名義に基き波多野に対する強制執行として右預金債権につき債権差押及び転付命令の申請をし、これに基く債権差押及び転付命令が原告主張のとおりそれぞれ債務者波多野及び第三債務者たる被告に送達されたことは認めるが、原告と波多野との間に原告主張の準消費貸借が結ばれたこと及び波多野敏子と呉錦順とが同一人物であるとの点はいずれも不知、右債権差押及び転付命令申請の日時は否認する。」

と述べ、抗弁として

「一、昭和三九年三月二〇日被告は訴外有限会社協商(以下単に協商という)と当座貸越、手形割引、手形貸付、証書貸付等の継続的取引契約を締結し、その際協商その他の保証人、担保差入人に対し強制執行、仮差押、仮処分、競売、破産、和議又は滞納処分の手続が開始されたときは、協商は全債務につき期限の利益を失う旨の合意をなし、同日被告は右契約に基き、協商に対し金三九〇万円を弁済期昭和三九年五月七日利息日歩二銭、損害金日歩七銭として貸渡した。なお昭和三九年五月七日被告は訴外協商に対し右債権の弁済期を同年同月一七日まで延期することを承諾した。

しかして昭和三九年三月二〇日被告と訴外波多野敏子及び協商の三者間で、訴外波多野において被告に対し、原告主張の合計金三九〇万円の定期預金債権を訴外協商の被告に対する債務の担保として差入れ、協商においてその債務を完済するまでは波多野において右預金の返済を請求せずまたこれを他に譲渡しないことを約するとともに、協商において右被告に対する債務につき期限の利益を失つたときは、被告は右定期預金の満期前においても、訴外波多野敏子に対する一方的意思表示により、右定期預金債権の元利金を協商の債務の弁済に充てることができる旨の合意が成立した。

しかるところ、昭和三九年五月七日波多野敏子の右定期預金債権が原告によつて差押えられたので、訴外協商はさきに述べた約旨に基き前記貸金債務につき期限の利益を失つた。そこで被告は訴外協商及び波多野敏子並びに原告に対し昭和三九年五月一二日到達の内容証明郵便をもつて前記約旨に従い訴外波多野の預金の元金を協商に対する債権の弁済にあてる旨の意思表示をなした。

二、前記昭和三九年三月三〇日被告、訴外協商、訴外波多野敏子の三者間に成立した合意の趣旨は、訴外協商が被告に対して有する債務につき期限の利益を失つたときは、(イ)被告において訴外波多野に対する一方的意思表示により、本件定期預金債権を消滅させ、同時に訴外協商の債務のうち右預金債権相当額を消滅させることができる旨の無名契約が成立したものと解すべく、(ロ)仮りにそうでないとすれば被告において訴外協商及び波多野に対する一方的意思表示により被告の訴外協商に対する貸金債権を自働債権とし、訴外波多野敏子の被告に対する本件定期預金債権を受働債権として相殺することができる旨の相殺の予約がなされたものと解すべく、(ハ)さらに以上のように解されないとしても、被告において訴外波多野に対する一方的意思表示により訴外協商の債務の弁済に代えて波多野に属する本件預金債権を取得することができる趣旨の代物弁済の予約がなされたものと解すべきである。

そして原告は以上のような特約付の債権を差押え、その転付を受けたものであるから、被告は右特約の効果を原告に対しても主張しうるものといわなければならない。

しかして前述の被告が訴外波多野及び協商並びに原告に対し昭和三九年五月一二日到達の書面によつてなした意思表示は、それぞれ右に述べた趣旨における前記特約に基く権利を行使するものと解されるから、本件預金債権はこれによつて消滅したものというべきである。

三、仮りに右の主張が認められないとしても、既に述べたように本件定期預金債権については訴外波多野と被告との間において、訴外協商の被告に対する債務が完済されるまでは波多野においてその返還を求め得ない旨の合意が成立しており、原告はかような特約付の債権を取得したものであるから、いまだ協商の債務が完済されていない現在被告に対しその履行を求め得ないものといわなければならない。」と述べた。

原告訴訟代理人は、右抗弁に対し、「原告に対し被告主張の書面の到達したことは認めるが、その余の事実は不知。仮りに被告及び訴外波多野らの間において、被告主張の契約が成立したとしても、本件預金債権の担保差入れは質権の設定と解すべきところ、これについて民法第三六四条に定める対抗要件を具備していないから、これを原告に対抗することはできない。また被告主張の契約に基く預金債権消滅の効果は訴外波多野に対する意思表示によつて始めて生ずるものであるところ、原告はそれより先に右債権の差押をしたのであるから、被告は原告に対しその効果を主張し得ない。」と述べた。

証拠〈省略〉

理由

(一)  成立に争いのない甲第一号証によると、原告が、原告を債権者、訴外呉錦順を債務者とする債権額金八三〇万円の公証人上田次郎作成昭和三九年第八六号準消費貸借契約公正証書の執行力ある正本を有することを認めることができる。しかして、波多野敏子と称する者が被告に対して満期昭和四〇年三月一二日金額二〇〇万円及び満期昭和四〇年三月一六日金額金一九〇万円合計金三九〇万円の定期預金請求権を有し、原告が右準消費貸借契約公正証書の執行力ある正本に基き、右定期預金債権について、東京地方裁判所に対し債権差押及び転付命令を申請した結果(同裁判所昭和三九年(ル)第一〇四〇号)、その旨の命令が発せられ、該命令はそれぞれ原告主張の日に債務者呉錦順及び第三債務者たる被告に送達された事実は被告の認めるところであり、証人余東植の証言によれば呉錦順と波多野敏子とは同一人であることが認められる。従つて原告主張の請求原因事実(ただし、債権差押及び転付命令申請の日時を除く)はすべてこれを肯認することができる。

(二)  そこで次に被告の抗弁について判断する。

(1)  成立に争いのない乙第三号証、同第四号証及び証人小南州弘の証言を綜合すると、昭和三九年三月三〇日被告は訴外有限会社協商と当座貸越、手形割引、手形貸付等の継続的取引契約を締結し、同日被告は右取引契約に基き協商に対し金三九〇万円を弁済期昭和三九年五月七日利息日歩二銭、損害金日歩七銭として貸渡した(なお、昭和三九年五月七日被告は訴外協商に対し右債権の弁済期を同年同月一七日まで猶予した)ことを認めることができる。

(2)  次にいずれも成立に争いのない乙第三号証、同第五号証の各記載並びに証人小南州弘の証言によれば、昭和三九年三月三〇日波多野敏子こと呉錦順は既述の被告に対する元本金三九〇万円の定期預金債権を訴外協商の被告に対する前記債務の担保として被告に提供することとし、同日被告と訴外協商及び呉錦順の三者間において、協商の被告に対する債務の完済されるまでは呉錦順において右預金の返還の請求をしないことを約し、協商がその債務の履行を怠つたときは、被告において訴外協商及び呉錦順に対する一方的意思表示により、右預金債権の元利金をもつて協商に対する債権の弁済に充当することができる旨の合意が成立したことを認めることができる(前掲乙第五号証-担保差入証と題する書面-には、「債務者が……期限の利益を喪失したときは……前記貯金の元利金をもつて債務の弁済に充当されても差支ない」旨の記載があるけれども、債務者において期限の利益を失つた場合だけに限らず、期限の利益を失わないまま本来の期限が到来し遅滞に陥つた場合も、当然貸主たる被告において右約定に基く権利を行使し決済をなし得る趣旨であると解するのが相当である)。

右の契約は、被告に対し、その一方的意思表示によつて被告の訴外協商に対する債権と呉錦順の被告に対する債権とを金銭の授受を省略して決済する権利を与えたもので相殺の予約に類するが、ただそれは第三者の債権をもつてする相殺の合意に属し、また右権利行使の時における預金債権の元利金をもつて被告の債権のうち任意の部分と決済をなしうるもので民法に定める相殺の遡及効及び法定充当と異る効果を生ぜしめるものであるけれども、右預金債権の差押及び転付後における右決済に関する権利の行使の許否については、いわゆる相殺予約の場合と同様に解して妨げないものと考えられる。しかして既に述べたところによれば、訴外呉錦順の被告に対する債権(相殺における受働債権に該当する)の弁済期は昭和四〇年三月一二日及び同月一六日であり、これに対して被告の訴外協商に対する債権(自働債権に該当する)の弁済期は昭和三九年五月七日(後に同月一七日まで猶予)であるから、被告は自己の債務の弁済期が到来しても、これを現実に弁済することを要せず、前記約定に基き協商に対する債権をもつて決済をなし得る正当な期待を有したものというべく、この利益は右預金債権の差押によつて奪われるべきものではないと解されるので、被告は右差押に拘らず前記約定に基く権利の行使によりその債務の決済をすることを妨げられないというべきである。そして右の約定は本件預金債権に付された特約であり、かつ右債権に対する転付命令の被告への送達(昭和三九年五月七日であることは当事者間に争がない)前に生じた事由にあたるから右転付命令により本件預金債権を取得した原告に対してこれを主張しうるというべきである。

(3)  しかして被告が昭和三九年五月一二日原告に到達の書面で訴外波多野の右預金債権元本金三九〇万円をもつて訴外協商の被告に対する債務の弁済にあてる旨の意思表示をしたことは当事者間に争がなく、右意思表示は前認定の特約に基く権利を行使して決済をなす趣旨と解することができる。

しかし、被告において右の権利を行使しうるためには、さきに(2) において述べたように、被告に対する訴外協商の債務が遅滞に陥つていることを要するものと解されるところ、その弁済期は昭和三九年五月一七日まで猶予されていたことは既に述べたとおりである。この点につき被告は、訴外呉錦順に対し強制執行が開始されたときは協商において期限の利益を失う旨の約定が存した旨主張するけれども、成立に争いのない乙第三号証及び同第五号証によつてもこれを認めるに十分でないし、また右被告の主張にそう証人小南州弘の証言も、その根拠として述べるところは必ずしも首肯し難く、右乙号各証に照らし採用し難い。(前掲乙第三号証によれば、訴外協商に対し強制執行手続が開始されたときは当然に期限の利益を失う旨の約定は認められるが、担保提供者についてかような事由が生じた場合協商において当然に期限の利益を失う旨の定めは認められず、ただ保証人についてかような事由が生じた場合は、被告の請求に拘らず、追加保証人を付さなかつたときに始めて期限の利益を失う旨の約定が存することが認められるが担保提供者についてもこれに準ずべきであろう。)そうだとすれば、被告は前記の意思表示をした当時、いまだ上述の特約による決済をなしうべき権利を行使し得ないものであつたというほかないから、右意思表示はその効力を生じなかつたものという外ない。そして、被告においてその後右と同趣旨の意思表示をしたこと等他に特段の主張はなされていないから、本件預金債権の消滅を主張する被告の抗弁は採用できない。

(4)  次に被告は、本件預金債権については、預金債権者たる呉錦順において、訴外協商の被告に対する債務の完済されるまではその返還を請求できない旨の特約があり、それはその儘右債権の取得者である原告に対抗できると主張する。

しかして昭和三九年三月三〇日右被告主張のとおりの約定の成立したことは既に(2) において認定したとおりである。そして右約定の趣旨は本件定期預金に付された確定期限のほか、さらに右預金債権につき前記内容の履行の条件が付されたものと解され、これによれば、呉錦順は右定期預金の期限が到来しても、右協商の債務が完済されない限り、被告に対し右預金債務の履行を求めえないものというべきである。

しかしてかような債務の履行に関する特約はその債権に付随するものとしてその儘右債権の承継取得者に対しても主張しうべきであり、かつそれは本件転付命令の原告に送達される前に生じた事由にあたることは既に述べたところから明らかであるから、民法第四六八条第二項の趣旨に従い被告はこれをもつて転付命令により右債権を取得した原告に対抗し得るものといわなければならない。

もつとも私人間の特約をもつて差押の効力を排除し、もしくは実質的に差押債権者にとつて執行による満足を得られなくするような関係を濫りに作出することは契約自由の原則をもつてしても許されないものというべきであるから、前記特約がそのようなものであれば、これを差押債権者に対して主張し得ないものとすべきであろうけれども、既に認定された事実関係に基けば、右約定は、本件預金債権を被告と訴外協商との間の継続的貸付契約に基く債権の担保とする趣旨において、金融取引上の正当な要請に由来する(しかも既に(2) において述べたように右約定成立の当時被告は訴外協商に対する前示金三九〇万円の貸金債権につき本件予約債権をもつて決済を得られることについて正当な期待を有していたものである)ものであると解され、第三者からの差押によつて被告にその利益を失わせるのはむしろ酷に失すると考えられるので、差押債権者たる原告に対しその効力を認めるのが相当である。なお、右の特約の効力を主張することは、本件預金債権に対する質権の効力を主張するものではないから、質権に要求される対抗要件を具備することを要しないものというべく、この点に関する原告の主張は採用できない。

しかして訴外協商の被告に対する債務が弁済されたことについては、これを認めるに足る証拠はないから、原告は右特約により被告に対しいまだ本件預金債権の弁済を求めえないというべきである。

(三)  よつて前記約定に基く被告の抗弁は理由があり、原告の本訴請求はこれを棄却すべきであるから、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第八九条の規定を適用して主文のとおり判決する。

(裁判官 安岡満彦)

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